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rexus別館

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apotosis vol.5

apotosis vol.5


DAY5 Sion
 夜の帳が降りてからかなりの時間が経っていた。
 鬱蒼と生い茂った木々は空をふさぎ、飲み込まれてしまいそうな深い暗闇を照らすのは唯一薪の炎だけだった。薪に宿った橙色の炎はゆらゆらと天に昇っては消えていく。そしてその炎が照らし出す二人の顔は一様にふさぎ込んでいた。二人の瞳には俺もそのように映っていたのかもしれない。
「怪我の具合は大丈夫か?」
 ゆっくりと顔を上げたカイは包帯の巻き付けられた手の甲を撫でながら「大丈夫です」とだけ答えた。それはあの後に俺が巻いてやったものだった。イリアに任せておいた筈だったのだが、木陰で休んでいたら案の定間の抜けた声が聞こえてきて、様子を見に行ったらミイラみたいになったカイがいた。
「全く……お前ってヤツは」なんて呆れた風に言いながら、本当は心の中でほっとしている自分がいた。救われたような気がしたんだ。ドジでマヌケな奴だけど、人の心を和ませる事にかけては天下一品だと思う。本人は意識すらしてないだろうけどな。
「夜も遅いしそろそろ休むか? 明日は早くに出発するんだしな」
 そう言いながら辺りをぐるりと見回す。イリアは俺と目が合うと無言で頷いて、カイは「そうして下さい」と短く言い放った。どうやら見張りは自分がすると言いたいらしい。当然その申し出を受け入れるわけにはいかないけれど。
「お前もだ、カイ。見張りは俺がする」
 おおよそどのように返してくるかは見当が付いていた。しかし次にカイが見せた表情<カオ>は全く予想だにしていないもので、俺はある種戸惑いのようなものすら抱かずにはいられなかった。
 俺の顔をじっと見つめながらカイは微笑んでいた。口の端を微かに弛めて、とても穏やかな瞳をして。そしてそれはジェンドがさらわれて以降ずっと抱いていたある違和感の正体でもあったのだ。
 そう、俺が知る限りカイは一度として取り乱しはしなかった。理不尽な誘拐に対して恨みや怒りの言葉を吐き捨てる事もなかったし、まして泣き崩れる事すらなかった。今は笑顔を浮かべてすらいる。その一つ一つの態度や仕草が俺には不気味に思えて仕方がなかった。
「俺なら大丈夫です。怪我も大したことありませんし。王子こそ魔法を使って体力を消耗されているのでしょう? 明日に備えてゆっくり休んで下さい」
「昔の俺とは違う。あの位の魔法を使った程度でへばったりしないさ。それにある程度身体に負荷をかけずに魔法を使う術も身につけたしな」
「それでも……」
「いいよ! 私が起きてるから、二人は寝てて? 私おろおろしてるだけで何も出来なかったし、ほら、そんなに疲れてないからさ」
「な~に言ってんだよ、目に隈つくりやがって。ホントは眠くて仕方ないんじゃないのか?」
「そんなことないもんっ!!」
「嘘つきにはこうしてやる! うりうりうり~これでどうだっ!」
「やぁ……もう! くすぐったいって!!」
「だったら大人しく寝るか?」
「やだ」
「ちぇっ、お前そう言うトコ妙に強情だな」
「だって何もかも二人に任せてばっかじゃ悪いもん……」
「そんな事ねえって。解った。それじゃあ2、3時間したら起こすから、そうしたら交代で番するってのでどうだ?」
「うん、それならいい」
「決まりだ。それじゃあ横になってろ」
 そうやってイリアを促すと、鞄の中から薄手の毛布をとりだして掛けてやった。それだけでは寒いだろうと思って俺のマントも上から掛けてやる。それから首から肩にかけて寒くないように毛布を奥まで押し込んでやると「風邪ひくんじゃねえぞ?」と少し小馬鹿にした口調で言ってやった。
 普段ならば噛み付いてくるだろうイリアは、微かに笑みを浮かべながら「うん」とだけ応えて、ゆっくりと目を閉じた。それを確認してから元いた場所へと帰って、再びカイの顔をじっと見つめた。
「お前も寝ていいぞ。後でイリアに起こさせるから」
「いえ、私が起きていますから王子は寝て下さい」
「カイ……」
「どの道目が冴えて眠れませんから」
「それでもだ。目を瞑って横になるだけでいい」
「大丈夫ですから」
「……勝手にしろ」
 それ以上何を言っても仕方がないと思ってそう言い放ってしまった。少し冷たい言い方だったかもしれない。だが人の気遣いをむげに断って、必要のない無理をしようとしているアイツに苛立ちを覚えずにはいられなかった。いや、本当はそのように気を遣わせている自分に対して苛ついていたのかもしれない。幼い頃から何かと世話になってきたこの男に何一つしてやれない自分に対して。
 カイは何も言わずにぼうっと炎を見つめていた。その瞳はまるで硝子のようで、ただゆらゆらと揺らめく炎の虚像を映し出すだけだった。
「悪かったよ」
「何がですか?」
「……何となくだ。色々」
「…………」
「…………」
「アイツの名前を呼んだ時、ほんの一瞬だけ我に返ったんです」
「え……」
「哀しみに染まった紅の瞳で俺を見つめながらこう言ったんだ。ただ一言だけ、殺せ……と」
 突然の告白にどう返して良いか解らなかった。
 彼の顔を見つめている、ただそれだけの行為すら苦痛であるように思えて仕方なかった。そしてそれは己の無力を思い知らされた瞬間でもあった。
「結局、俺は自分のしたい事をしたいようにしていただけなのかもしれません。アイツが何を欲していたか、どうして欲しかったのか、それに耳を傾けることなく」
「それじゃあ、ジェンドはどうして欲しかったんだと思うんだ?」
「さあ……俺にはもう解りません」
「ジェンドもそうだったんじゃないのか?」
「どういうことです?」
「いつ自分が自分でなくなるか解らない、そんな極限状況の中で追いつめられて、混乱して、本当は自分でもどうしたいか、どうすればいいか解らなかった、こんな風には考えられないか?」
「アイツの瞳から強い意志を感じたんです。あれは決して一瞬の気の迷いとかそういうのではありません」
「だったら、何故彼女はお前に殺して欲しいと思ったんだ?」
「俺を傷つけたくないから……前にそう言っていました」
「何故傷つけたくない?」
「何故って……少なくとも彼女にとって俺が大切な人間だったから、そういう理由以外にありますか? 俺だってもしあいつを傷つけてしまったらって考えたらゾッとする。俺が俺でなくなって、ましてこの刃でなんて……」
「そんな事をしたら永遠にその罪と苦しみを背負って生きていかなければならない。彼女を傷つける事で自分をも傷つける事になるのかもしれない」
「…………」
「彼女もそう思ったのかもしれない。お前を傷つけてしまうくらいならば、それで一生苦しみを負うことになるくらいならば自分が死んだ方がマシだと。お前とジェンド、どちらがそうなってもおかしくなかった。そしてどちらもが心の中では自らの死を願っていた。どうだ?」
「…………」
「お前達の中ではそれで完結していたかもしれない。だがここにもう一つの選択肢がある。お前が死ぬのでもない、ジェンドが死ぬのでもない、もう一つの選択肢がな。もしもあの時ジェンドを殺していたら、その可能性は永遠に喪われていた」
「ジェンドを助け出して二人とも生き残る……か」
「あの後お前はそう言ったな? 絶対にジェンドを助け出してみせるって。あれは嘘じゃないだろ?」
「当たり前だ!」
 そう叫んでからハッと我に返ったような顔をするカイ。それからイリアの方をチラッと見つめて、押し殺した声で「俺は絶対にこの手でジェンドを助け出してみせる」と続けた。
 カイの様子が何か可笑しくて、俺は口元を緩ませながら炎に視線を落とすと、喉の奥を鳴らすようにフフッと笑ってみせた。
「……当たり前だ。だから俺達はここにいる。だろ?」
 そしてゆっくりと彼の方へと視線をあげる。未だ口元には微笑を残しつつ、睨み付けるようにカイの顔をじっと見つめた。
「俺達は一つなんだ。誰かを犠牲にして誰かを助けるだなんて、そんな選択肢は存在しない。イールズ・オーヴァの目的が何であれ、もしジェンドを犠牲にしてヤツの目的が成し遂げられた時に俺達を生かしておくと思うか? そうは思えないし、そうなれば俺達だって黙っちゃいない。仮に勝機がないと解っていたとしても俺達は進むだけなんだ。つまり初めから俺達に与えられた選択肢は二つ。生きるか……死ぬか、それ以外にあり得ないんだ。そして俺達は絶対に死なない」


DAY8 Sion
 この国に対してどのような感情を抱いているか、と訊かれれば答えに窮してしまう。ここが俺の故郷である事は間違いないが、こうやって久々に訪れても感慨にふけるわけでもなければ懐かしく思うわけでもない。ただ一つ思い出せることといえば、いつもここから逃げ出したいと思っていたということ。この国は俺を捕らえて離さない巨大な鳥篭であり、俺はその中で適切なーーあるいはそれ以上のーー待遇を受ける代わりに己の役割を演じることを強要された。その意味においてこの国は忌むべき場所であることには違いないが、一方でここは故郷なのだから愛さねばならないという義務的な観念があるのも確かだった。仮にそう割り切ることが出来たとして、ここが自分の居場所であるとは決して思えないのだが。何故ならば、俺の居場所はアイツの隣しかあり得ないからだ。今までずっと俺を支えてくれたアイツの隣しか。

 国というものも所詮は人間とそう隔たったものではない。産声をあげてこの世に生を受け、理などというものなど何一つ解らないまま手探り状態で大きくなって、物心がついたと思った頃には派手に着飾って若さを謳歌し、そして徐々に衰退の一途を辿っていく。最後には己の力で立ち上がることすら出来なくなって杖や人の力を借りることとなる。改めてこの国を見回してみると、まさに人生の晩秋を思わせるような、そんな切なさや虚しさを感じずにはいられなかった。かつては黄金の都と呼ばれた王都でさえも今は派手なメッキが剥がれ、真鍮のようなくすんだ色彩に彩られているだけだ。
 そう、王都に足を踏み入れた今、俺はただじっと目の前に広がるかつての虚栄の市を見つめながらそのような事を考えていた。どうして、と喉元まででかかった問いかけを強引に飲み込んでゆっくりと歩き出す。俺達の他に道を行き交う者達もまばらだ。ただ、目を凝らしてみると暗がりの中に微かに動く人影を見つけることが出来た。闇と同化するように汚れて灰色になったボロ着を纏って、長い間風呂にも入っていないであろうその肌は酷く黒ずんでいた。そしてそんな彼らの姿を冷静に見つめている自分が酷く嫌だった。いや、人間として抱くべき感情はもちろん機能している。しかし俺が抱いてしかるべき感情は鎌首をもたげることもなく、良心の奥底で長い眠りについていた。
 そのような事を呆然と考えながら歩いている中、ふと道にばらまかれた新聞が目にとまって足を止めた。号外らしいそれには『ジラート師失踪 誘拐か!?』と大きな見出しがついている。
「どうかした?」
「あ……いや、この記事が目についただけだ。またか、って思ってな」
「そう言えば最近多いですね」
「ん? ん? 一体何のこと?」
「ほら、また魔導師が失踪したんだよ。今度はアドビスのお偉いさんだ」
 そう返すとイリアは不思議そうに首をかしげてみせた。どうやらコイツは本気で何も知らないらしい。らしいと言えばその通りだが、何か呆れて全身から力が抜けていくような気がした。
「今度って事は前もあったって事だよね?」
「カイ、教えてやれよ?」
「ここ最近立て続けに有名な魔導士さんがいなくなってるんだよ。誰にも何も言わずに突然いなくなるから、皆が騒ぎ出してるんだ」
「へえ……そうなんだ?」
「ったく、いっつも俺と一緒にいるクセして何で俺が見聞きしたことをお前が知らないんだ? 食べ物にばっか注意がいってるからそうなるんだぜ?」
「だ……だって…………」
「まあまあ、イリアちゃんは食べるのが大好きだから……」
「……兄さん、それフォローになってないよ」
「は……はは……それより、これからどうします?」
「あーーーごまかした!!」
「そうだな、まずは王立図書館に行ってみよう」
「そうですね。情報がないことにはこちらも動きようがないですから」
「ううう……二人とも私のこと無視してぇ……」
「ほら、何いじいじしてんだよ。さっさと来ないと置いてくぞ?」
「あ、待ってってば!」
 全く、どこまで来てもマイペースなヤツだと思う。だけどそこがまたいいんだけどな。そういうトコがなくなったらイリアじゃなくなってしまうような気がするし。
「ほら、待っててやるから走るなって。慌てるとまた転けちまうぞ?」
「そんなことないもんっ! って……わわっ!?」
 ドスンと豪快な音を立てながら顔から地面に倒れ込んでいくイリア。やれやれ……前言撤回した方がいいかもしれないな。
「言わんこっちゃない」
「うう……だって…………」
「ほら、手を貸せよ」
「……うん」
「怪我大丈夫か? 血ぃ出てないか?」
 半べそかいたイリアは大げさに顔を動かして手や足を調べて、ぶんぶんと頷いてみせた。
「ふふ、何か微笑ましいですね」
 言葉の通り微笑を浮かべながら言うカイ。だけれど、少し細めたその目には何とも言えない哀しみが漂っているように見えて仕方がなかった。


「ちょっと待ってくれ」
 図書館近くの裏路地に入った所で二人を呼び止めた。
「どうかした?」というイリアの問いかけに答える代わりに髪留めを外す。口をぽかんと開けて俺を見つめる彼女を尻目に、頭を振りながらクセのついた髪の毛を丁寧に下ろしていった。
「うわ、シオン女の子みたい!」
「うるせーよ。一部の人間には面が割れてるからな。変装だよ。ヘ・ン・ソ・ウ」
 それから辛うじて顔が見える程度にフードをかぶると「それじゃあ行こう」と言って歩き出した。この手の変装は過剰にすればするほど疑われやすくなるし、かといって何もしなければすぐさまバレてしまう。これでうまい具合僧侶にでも間違えてくれればいいんだが……そう思いながら図書館の門をくぐると、辺りに探りを入れながらゆっくりと先へと進んでいった。
 総大理石のエントランスを抜けると数メートルの通路が、その脇には貸し出しの担当者が俺達を見ながらじっと座っている。しまった、と思った時は既に手遅れでばっちり目が合ってしまっていた。しかし何ら動じる気配はない。どうやら気付かれてはないようだ。俺は出来るだけ冷静を装って歩いていくと、その先にあるやたらと広い書庫の中へ隠れるように入っていった。
「それじゃあ、各自でダークエルフについての本を調べよう。ええと、一纏めにした書架があったはずだが。確か……」
「あ、ここじゃない? シオン」
 イリアが走っていった先を見ると、確かに見覚えのある本がズラッと並んでいた。どうやら彼女の言うとおりここがダークエルフについての研究書を集めた書架らしい。
「よし、ここを調べよう」
「ええ、そうですね」
 そう言いながら書架の本に手をかけるカイ。しかし次の瞬間、彼は開いたページをじっと見つめながら「あっ……」と声を漏らした。
「どうしたんだ?」
 急いで彼の方へと駆け寄っていく。そして彼の視線の先にあるそれを見た瞬間、頭の中にある一つの確信がよぎった。きっと彼も俺と同じ確信に至ったに違いなかった。
「ジェンド……」
 そう呟きながら、カイは本の間に挟まっていた紫色の髪の毛を手にとって胸にぎゅっと押しつけた。閉じた瞳はわなわなと震え、歯が見えるくらい開いた唇からは微かな嗚咽のような声が漏れていた。
 それだけに集中力を欠いていたという事だろうか、彼の名前を呼ぼうとした瞬間、背後に気配を感じるや否や「すみません」という声が聞こえてきた。
 彼らの目的が何かくらい容易に想像できた。しかしこの時の俺を突き動かしていたのは「ここで捕まるわけにはいかない」という一念だけだったのかもしれなかった。ゆっくりと目を閉じると、振り返ることなく「何だ?」と低く押し殺した声で返した。
「我々と一緒に来て頂きたいのです、王子」
「人違いだ。そんなヤツここにはいない」
「女王がお会いしたいと仰っています。是非とも我々とご一緒下さい」
「……断ったら?」
「我々に強制力はありません。飽くまで貴方の意志を尊重し、女王にはそうお伝えします」
「それじゃあルハーツにそう伝えておけ。俺は行かない。もしも力をもって制すと言うならばこちらも同じ手段に出させてもらう」
「いいえ、ルハーツ様ではありません。これはミト様のご命令です」
 その名前を聞いた瞬間、心臓がドクンと大きく波打ったような気がした。


 兵士の後について歩きながら、先ほど聞き出した話を頭の中で何度も繰り返していた。
 この国の、そしてミトのおかれている現状--それらは想像していた以上に酷いものだった。例の事件以降王権は実質上ミトに移行、ルハーツは権力機構から外される事となった。しかし混乱を避けるという名目からそれが公表される事はなかった。王室としてはイールズ・オーヴァを国の奥深くまで侵入させてしまった原因が身内だと認めるわけにはいかなかったし、それを認めてしまえば王室の存在をも脅かす事になりかねなかった。だから結局はお定まりの「病気」という形で隠遁させ、後始末を全てミトに押しつけたのだ。
 全く、聞けばきくほどあの時と同じに思えて仕方がなかった。もっともルハーツに王位が移った時に、父上は実際に病の床に伏していたけれど。
 権力を手に入れたミトがそれをルハーツのように濫用するとは思えない。ただ、この国の体質とでも言おうか、そのようなものに危惧を抱かずにはいられなかった。
「こちらです、どうぞ」
 ゆっくりと豪奢な扉が開かれる。目の前には長い赤絨毯が広がって、その先の王座に座っていたのは紛れもない俺の妹だった。
 俺に向かって微笑みかけている彼女の顔をぼうっとみつめながら、俺はどのような感情をもって接すれば良いのかすら解らないでいた。
「お帰りなさい……お兄様」
 視線を一度地面に落としてから「ああ」とだけ答えた。それが彼女に語りかける唯一の言葉であり、今の俺達を象徴しているようにすら思えたのだ。ミトは少しだけ悲しそうな顔をすると、他の二人の顔を交互に見つめ、再び笑顔を浮かべて話を続けた。
「お二人もよく来てくれましたね」
 その言葉を合図に俺の前へと出てきたカイは、その場に片膝をついて、うやうやしく頭をたれた。
「王女、不躾にこのような話をする非礼をお許し下さい。私達がこの国を訪れた理由は……」
「カイ、頭を上げて下さい」
「イールズ・オーヴァが現れました。そしてジェンドがさらわれてしまいました」
 ミトの顔が青ざめていくのが手に取るように解った。彼女もあの事件に関わった一人なのだ、それが何を意味するかの察しくらいはついたのだろう。
「失礼します」
 不意にドアを叩く音が聞こえてきて、一人の兵士が急いだ様子で中へと入ってくる。
「下がりなさい。今は大切なお客様とお話しているのです」
「申し訳ありません。ルーファス様から早急にお連れするようにと申し使っておりまして……」
 それを聞いたミトは右手を額に押し当ててさも不快そうに溜息をついた。顔を上げた彼女はさっきよりも少し落ち着いているように見えたが、眉間には似つかわしくない深いしわが刻まれていた。
「……そうでしたね。解りました。ルーファス殿にはすぐにうかがうと伝えておいて下さい」
「解りました」
「すみません、どうしても外せない用事があるのです。お話は明日改めてという事にして頂けませんか? それから今晩はここにお泊まり下さい。部屋は用意させます」
「いや、もう宿をとってあるんだ」
 とっさに嘘を吐いた。自分でも驚くほど自然に、それはこの場所に対する拒絶反応だったのかもしれなかった。
「それならキャンセルさせます。今夜だけでもおもてなしさせて頂けませんか?」
「…………」
「そう……ですよね。私はお兄様の気持ちが解るなんて偽善めいた事を言うつもりはありません。でもこれだけは解って欲しい。あの時とは違うんです。もはやこの国にお兄様を拒む者などおりません」
「ミト……この国が俺を捨てたんじゃない。俺がこの国を捨てた。自らの意志で」
 そして身体を翻すとゆっくり歩き出した。
 少し遅れてイリアとカイの足音が聞こえてくる。
「お兄様!」
 答える代わりに足を止める。何だか背中がムズムズして落ち着かない感じがした。
「お願いですから……」
 少し震えた妹の声。この国の長としてではなく、唯一の肉親としての彼女の言葉。たった今気付いたんだ。俺は彼女に対する言葉を持っていないんじゃない。意識的にしろ無意識的にしろ、俺自身が封印した。
 お前は一体何をしてるんだ、と心の中でどやしつける。俺は兄として彼女にこのような事を言わせるべきではないのだ。決して。
「……解った」
 噛みしめるようにそう言うと、後ろから「ありがとう」と、優しく頭を撫でるようなそんな声が聞こえてきた。
「ありがとう」
 誰にも聞こえないような小さい声で俺もそう囁いた。



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